二義少年三百年祭

二義少年三百年祭 page 9/10

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-14-本藩の直領となった長野村の農民は、最早益田家には何の容赦もすることはなくなりました。益田家の菩提寺は深野の玄答院でありましたので、益田家から寺に参詣するには、長野村を通過しなければなりませんでした....

-14-本藩の直領となった長野村の農民は、最早益田家には何の容赦もすることはなくなりました。益田家の菩提寺は深野の玄答院でありましたので、益田家から寺に参詣するには、長野村を通過しなければなりませんでした。それで村人は、先年の腹いやしといって、笠を被ったままその行列を見物し、或いは臭気甚だしい肥料桶を荷になって、その前をさまたげたりしました。しかし行列の者はとがめる事もできず、鼻をつまみ渋面してにらみつけるだけでした。宝永七年の一揆から二十八年たった元文三年(一七三八)の春、長野村の農民のうちに、益田領に復帰をはかろうとする不心得者が出ました。これは領地没収を不面目として、その復旧を望む益田家側におどらされたのですが、村人は二度と再び益田氏の領分にならぬよう、互いに結果を固くし、それについての地じ下げの心得を書きつけ、百二十人の村民が連署連判とともに血判して固く誓い合いました。その後、清介、角左衛門の百年際の供養を記念して、享和二年(一八〇二)十一月二十六日、この申し合わせ書に百二十一人の村民が連判して書きつぎを行い、さらに百五十四回忌の安政七年(一八六〇)には、百四十五人が連判して書きついでいます。このようにして二義少年捨て身の悲願は、長野村農民の代々にわたり、心から心に伝えられ三百年を経た今日においても、その尊い事蹟は、郷土の天地にこもりつつ、八幡宮社頭の石碑と共に不滅に伝わっているのであります。あとがき清介・角左衛門の風化した事蹟を丹念に博捜し、世に顕彰したのは、大内御堀出身の和田宇吉です。和田は明治十七年、若干十三歳の時から清介・角左衛門の事蹟調査に着手し、明治二十九年にいたって慰霊の石灯籠―長野八幡宮社前―