二義少年三百年祭

二義少年三百年祭 page 8/10

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-13-可憐を認められながらも、藩の大法は、一揆の首謀者であるとして、斬首の刑が申し渡されました。そして正徳元年(一七一一)十一月二十六日、萩の郊外、大屋の刑場の露と消えました。清介は年二十一歳、角左衛門は....

-13-可憐を認められながらも、藩の大法は、一揆の首謀者であるとして、斬首の刑が申し渡されました。そして正徳元年(一七一一)十一月二十六日、萩の郊外、大屋の刑場の露と消えました。清介は年二十一歳、角左衛門は十九歳でした。長野の里の人々は、二人が刑に遇あったと聞くと、唯一の愛児を失ったように慟どう哭こくし、心からその冥福を祈りました。清介の法名は虚庵智空禅定門居士、角左衛門の法名は慈信院釋浄玄居士です。ああ、無情の嵐は一過して、惜しくも蕾の花を散らしました。しかし二青年の犠牲の流血は光明となって、暗黒世界に永久の平和をもたらしたのでした。これより先、隠目付の大川伊左衛門は、早飛脚をもって、事情を幕府に報じました。しかしこの時、朝?の使節が幕府へ来ていたので、江戸城内はそのことで忙しく、老中も余事を考えるいとまがありませんでした。朝?の使節のことが終わって、ようやく大川の書状を見た老中は、一読して感激しました。それで幕命として二人を助けることとし、斯かくの如き義民は稀に見るところであるから、藩の規定といってもまげて死を許し、後世の鏡となせとしました。しかしこの幕命の書は二人が処刑された翌日に萩城に到着したので、助命は間に合いませんでした。人々はそれを憾うらみとしました。享保十四年(一七二九)大川伊左衛門がこの土地を去るに当たって、石灯籠を一対、八幡宮の社前に建て記念としました。今もこの石灯籠は残っています。二人は斬首の刑に―二義少年就義図巻より―