二義少年三百年祭

二義少年三百年祭 page 5/10

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-10-からすがりついて餓苦を訴える姿に、農民でありながら食べ物の無いつらさは、五臓六腑を寸断される程の苦しみでした。全くこの世の地獄という日夜でした。しかし役人たちが管理する益田家の倉には、良米の俵がぎ....

-10-からすがりついて餓苦を訴える姿に、農民でありながら食べ物の無いつらさは、五臓六腑を寸断される程の苦しみでした。全くこの世の地獄という日夜でした。しかし役人たちが管理する益田家の倉には、良米の俵がぎっしり積み重ねてあって農民の飢き餓がはしらぬげの気色でありました。秋の稔りを一日千秋の思いで指折り数え、待ちに待った晩秋となり、わずかの余り米でも出るようにと、痩せた体をはげまして臼うす挽ひきをすれば、老親や幼な子は寄ってきて、籾が米になって出てくるのを見て手をたたいて喜ぶという有様でした。わずかに殻からをのけた玄米で、これから粥かゆにつくろうとした時、益田の役人は、早くもこれを探知して乱入し、一家全員を縛りあげ、前年からの年貢も完納していないのに米の飯を食べようとしたという罪を以て、水牢に入れるという極刑に処しました。またこのような話も伝わっています。由左衛門という農民が、臼挽の夜に菜な雑ぞう炊すいを食べていましたが、それさえ役人は、米を食べていたと邪推して、一家を打ちょう擲ちゃくしました。それから後は、臼挽の夜は全村いずれも燈火を消して、暗がりの中で、家族が箸の音もたてぬようにして、ひそかに粥をすするのがならわしになったといいます。水牢の刑は、前年の年貢が未納のものが、それを納める前に米を食ったという者ばかりでなく、年末になってもその年の年貢が全納できないものがあれば、家族もろとも裸にして、一昼夜水牢に投げ入れるのでした。重い年貢でしたので、豊作の年であっても、この水牢の刑になるものが多かったといいます。限りのある田畠の収穫であるので、毎年の苛か酷こくな年貢の取り立てに、到底応ずることはできませんでした。その一家が年末になると水牢に入れられるということであるから、おののきふるえて、終夜眠ることもできず、年末になることが少しでも長いようにと、神仏に祈る悲しみでありました。村はなげきと悲しみの声で埋まり、日の照る昼といっても陰いん惨さんさは地を覆い、途上に鬼火が燃える気配がする程であったといいます。さすが従順な農民も、この悪政には耐えることができませんでした。そこで農民五十二人が益田家の代官にこの惨状を訴えて、善処を求めようとしました。その時の代官は益田の家来、内海与一右衛門で