二義少年三百年祭

二義少年三百年祭 page 4/10

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-9-向原というのは川を隔てた対岸にある原野のことでした。この仁保川が延享二年(一七四五)に、洪水のため川が氾濫して西側につき、現在のような地形になったといいます。ともかく向原というのはそのように川の荒れ....

-9-向原というのは川を隔てた対岸にある原野のことでした。この仁保川が延享二年(一七四五)に、洪水のため川が氾濫して西側につき、現在のような地形になったといいます。ともかく向原というのはそのように川の荒れるにまかせるより仕方がない程の、砂礫におおわれた荒廃の土地でありました。ひどい政治は開作の年貢だけにとどまらず、長野に住んでいた益田家の陪臣の者たちは、己おのれの田地に苗を植え、草を取り、稲を刈るという仕事に、公威を笠に着て農民を使い、その報酬は全く見ることが無いという有様でした。また萩の益田家の屋敷にもときどき人夫として出なければならなかったのですが、その滞在の期間中、寒いときに暖をとるために使用した薪代までが農民の負担として代銀を徴収するという程でした。太平で良い政治が行われている御代でも、つつしまやかに、ようやくその日を凌しのぐというのが当時の農民でありましたので、このような悪政、過重な年貢のとりたてに対して、耐えることには限界にきていました。厳寒の冬でもわずかに破れ着物をまとい、過労のために身心はやせおとろえていました。一日おきに満足に一食をたべるということさえむつかしかったのですが、ひとたび凶年となると、その惨状は甚だしいものでした。親子兄弟が夜があければ青い顔をして、額をよせあつめてなげき悲しみ、夜になればやせ細った腹を撫ぜて、世のすべてを恨むという日々でありました。老親や幼児、妻などが左右仁保川沿いの向原