二義少年三百年祭

二義少年三百年祭 page 3/10

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-8-左衛門、松原清介の二人こそ、今を去る三百年程前、長野の里人を現世の地獄から救った二義少年で、このように毎年二夜の盆ぼん会えを開いて、その恩義を忘れないようにするわけであります。防長両国の大守、毛利....

-8-左衛門、松原清介の二人こそ、今を去る三百年程前、長野の里人を現世の地獄から救った二義少年で、このように毎年二夜の盆ぼん会えを開いて、その恩義を忘れないようにするわけであります。防長両国の大守、毛利氏の重臣に益田景祥という者がありました。この益田氏はもと石州の益田に住し、毛利氏に属して大功がありましたが、毛利氏が広島から萩に移った時、益田家は須佐に移りました。益田景祥は益田家の分家として、ここ長野付近を給領地とし、三千六百石を領し、問田に本拠を置いていました。時は移って元禄年中、益田就高という者が領主であった時、その家来に人を得ず、この地の農民は塗炭の苦しみに会うことになりました。長野の西の方に向原という所があります。この地は仁保川に沿っていて、洪水の度に土手が決潰し、河水が氾濫して、砂さ礫れきが連なり、雑草が生えて荒地となっていました。領主就高は家来の作間某に命じて、長野の百姓を使役して、ここの開墾を実施させました。苛酷な向原開作この作間某は苛酷な役人で、自分の手柄をあせり、百姓に無謀な無理を強いました。つまり開墾については、完成後十年か十五年の一定の期間、鍬くわ下した年ねん期き(免税期間)があって、田畠の土が肥えてから年貢を収めるということがきまりであるのに、作間は新しい開作に少しも鍬下年期を与えないばかりか、その田の面積に対して出来高を多く見たので、農民は終日鋤すき・鍬くわをもって汗を流して働いても収穫は少なく、年貢としては他の田畠の出来をもって納めなければならぬというようなことでしたので、農民であっても米を食べることが出来ず、一家が飢えに泣くというありさまでした。村中に役人をうらむ声は満ち、作間開作をもじって、悪魔開作というようになりました。当時の狂歌に『開作は次第に益田清之進金を借ろうも今は七内』というのが今に伝えられています。清之進は益田の当主就高の通称、七内はその長子の名です。今の向原の地は、長野の西側を流れる仁保川の東岸ですが、江戸時代初期の元禄、宝永の頃は、川は郷内を貫流し、向原は川の西にありました。つまり