二義少年三百年祭

二義少年三百年祭 page 10/10

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-15-ようやく小稿を成し、防長新聞に掲載しました。当時、防長新聞の主筆であり、後山口町長をつとめた作間久吉も「世間に紹介する栄を得しを喜ぶ」と述べ、詩文をよせています。和田はまた調査した事蹟一綴を品川弥....

-15-ようやく小稿を成し、防長新聞に掲載しました。当時、防長新聞の主筆であり、後山口町長をつとめた作間久吉も「世間に紹介する栄を得しを喜ぶ」と述べ、詩文をよせています。和田はまた調査した事蹟一綴を品川弥二郎に送付二義少年就義図巻―山口市歴史民俗資料館蔵―しました。品川は二義少年の建碑をすすめ、碑文の草稿を書き送り、東京の新聞にも発表しています。品川弥二郎が和田宇吉に送った手紙に、「建碑のことを知りて二義少年の絵巻物をこしらえて御寺に納めたしとて相談に来りしものあり」とありますが、これが「二義少年就義図巻」の作者、田中長嶺であります。田中は当時織田完之(鷹州)宅に寄寓してその絵を描いていましたので、織田も「図巻」に題した七言絶句の詩を寄せています。事蹟一綴は井上馨が帰郷したときにも手渡されました。井上はその場で開披し、全冊を通読しました。石碑の「二義少年碑」を井上が篆額した所以であります。「二義少年就義図巻」は「山口市歴史民俗資料館」に大切に保存されていて、それによって二義少年の業績は充分に知ることができるわけであります。また明治に書かれた、和田宇吉のまとめた事蹟は、文語体の文章で、現在においては少しなじみにくい文章になっていますので、今回古い文章を尊重しながら口語文に書きあらためました。みなさまに読んでいただければ有難いことです。